『暇と退屈の倫理学』を読みました


暇と退屈の倫理学 (國分功一郎、 2022、新潮文庫版)を読みました。少し前から「ゲームを消費して良いのだろうか」と悩んでいるのですが、ちょうどその頃に知り合いの方が本書を紹介されていたので、いつか読もうと思っていたのでした。

ヘッダー画像は、新潮社の web サイトから書影を引用しました。
出典:新潮社、『暇と退屈の倫理学』 國分功一郎、https://www.shinchosha.co.jp/book/103541/ (2024年12月12日アクセス)


(書きやすさのために、ここからしばらく常体文になります。)

本書について

退屈はなぜつらいのか、暇と退屈はどう違うのか、を歴史や生物の様々な解釈の批評によって説明し、最終的な筆者の主張への導線を組み立てていく。

素人でも読みやすく、基本的な価値観は共感できるものだった。特に、「人類の定住化と退屈の始まり」、「満たされない消費と退屈の悪循環」、「消費ではなく浪費が望ましい」という辺りは参考になった。結論の「暇を楽しむために勉強しろ」と「動物になれ」のくだりは、追うのに少し苦労した。

説教で消費は止められるのか

気になった点といえば、活力的(ともすれば強硬)な姿勢から導き出された結論は、筆者が批判したハイデッガーの決断主義とどれほど違うのだろう。

確かに退屈の解釈(「退屈の第三形式」の扱い)は新しくなったのだろうが、そこから導き出される主張は「人間には余裕があるはずだ」、「その余裕で暇を楽しむ努力をしろ」、「退屈がつらいのは努力が足りない」だった。ハイデッガーの『「グダグダしていないで、心を決めて、しゃきっとしなさい!」と活を入れること』 [^1] と大して変わらないように思う。

結論や脚注で、戦争や貧困といった外的要因、または発達の個人差のような内的要因によって余裕がない場合の考慮も無いわけではない。それに、満たされることのない情報(消費財のような物体も含む)を「消費」する負け戦を止めて、限度ある「浪費」を目指そうという(多少は)具体的な方針を示そうともしている。

だけど、結局示せた主張は、誇張して言えば「消費社会問題は無教養(低俗)な消費者の自己責任」どまりのような。

「消費」を辞めるには教養を身につける余裕が必要だが、その余裕を生み出すのは「消費」を辞めること(浪費)だとしてしまうと、そこから抜け出せないひとに豊かな未来は来ないのか。上から説教しているだけになってないか。

そもそも筆者は決断主義が嫌いな訳ではなさそうだ。むしろ好きなのだろう。 [^2] だけど、決断主義がテロリズムを助長し得るという対外的な問題から、距離を取ろうとしたのでは。そういう意味でも、自他ともに厳しい真面目な方ではあるのだろう。

問題は、その厳しさで人間は変わるのだろうか。社会は変わるのだろうか。

消費を止めるのは正しいことなのか

もうひとつ、気がかりなことがある。

僕は消費社会が好きでないし、消費を止めて浪費を目指そうという主張は魅力的だった。だけど、消費を止めることは本当に正しいことなのだろうか。

定住化による余裕とやり場のない思考能力が退屈の始まりだとの説明だった。それなら、その後の文明発達も退屈(できる能力)のおかげだったと言えそうだ。

だけど、その発達過程で実践された「暇つぶし」のうち、教養ある人間の高尚な「暇つぶし」が占める割合がどれほどあったというのだろう。むしろ、無教養な大勢の低俗な「暇つぶし」の積み重なりが文明の土台になっているのでは。

文明発展を担ってきた低俗な暇つぶしであるところの「消費」を、ある日人間が止めたとして、「浪費」ができるほど物質的・文化的に余裕のある社会は維持されるのだろうか。「浪費」の推奨は「進歩をやめよう」という結論に繋がってしまわないだろうか。(進歩が「正しい」のかは、それはそれで悩みのタネではあるのだけど。)

僕は「浪費家」になりたいと願っている。だけど、実はそれが人間として不自然で、文化の足を引っ張るだけなんじゃないか……そんな不安を感じる。

ま、それこそ思い上がりでしかないのだけど。


[^1]: 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』新潮文庫版、 2022、 p. 340。
[^2]: 同前、 p. 414。


あとがき

感想は Bluesky で簡単に、と思っていたのですが、珍しく長くなりそうだったので note で書いてみることにしました。思ったことを、他の人の感想を見る前に書いてみようというつもりだったので、またすぐに考えは変わると思います。

あわよくばゲームと絡めて書いてみたいとも思いましたが、それも他の感想を見つつ自分の中でもう少し考えを落ち着かせてからにしたいです。


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